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2008.12.31 Wednesday

清塚利夫さん−前編



霜が付いて肉肌が見にくいが御容赦

長い々々人の軌跡を、
此処まで完璧に再現する記事に出会った事は始めてである。

設立当初から、私の会社を支えてくれている【健康豚】って商品の生産者である。
この方の飼養した豚肉が、私の会社にやってくるには、
『桑原家達』とおっしゃる方の仲介に由る。
私が新潟市の生活協同組合で商品担当をしている時に、
『この農家の豚肉を企画するように』と渡された原稿用紙に、
桑原さんの文章が書かれていた。
農家としての意気が消費者向けに綴ってあり、
その意気に同調する仲間を求めるように、
『士(さむらい)よ、来たれ!』と結んであった。
ひとつひとつの言葉に無駄が無く、しっかり頭に響く文字の列であった。

当社が発足して間もなく、養豚業を廃業され、精肉会社に転身された。
『有限会社まきば』というが、その時に自分以上の養豚家を紹介された。

会わせて頂きに新潟まで行った。
新潟では、接客に女性は登場しない。
御主人が客人に、自らお茶を振舞ってくれる風習がある。
私はこの風習が好きである。
この所作に、その人の凛として、客を招じ入れる風が、
親しみながらも、折り目をピシッと入れる。

今日はその『清塚利夫』さんの記事を全文紹介したい。
小柄ながら、眉の太く濃いお顔が印象的だった。
私と歳の開きは20歳、丁度今の私の年齢となる。
若輩の者に対して私も、あの時の清塚さんの様に接していられるか、
いささか不安になるほど寛容でもあった。

記者の『榊田みどり』さんの文章表現能力にも感服する。
私も恥じぬよう正確に転載したいと思うが、粗相があればお許し頂きたい。

以下=全国農業新聞=より転載。
【農人伝】
 青年団運動が支えに
 私は1933年(昭和8)、新潟県藪神村で2ヘクタール の水田と養蚕を営む農家に生まれました。日本が國際連盟を脱退し、戦争の足音が近づき始めた頃です。今でこそコシヒカリで有名な魚沼市になりますが、藪神村は村の7割が山林という山里でした。山寄りの集落は、農業より炭焼きを主体に暮らしていました。
 私は3人兄弟の長男ですが、戦前は両親と祖父母、曾祖父母とも健在で、3世代で農作業をこなしていました。
 第二次世界大戦が生活を大きく変えました。父が43年に出征し、2年後、33歳でフィリピンで戦死しました。母が28歳、私が12歳で国民学校6年生の時です。その頃はもう、勉強どころではなく、校庭を開墾し、全校生徒でソバを栽培しました。イナゴを煮て乾燥させ、学校給食のみそ汁のだしに使ってもいました。農村であっても米の大半を政府に供出してしまい、食糧難の時代でした。
 小学校を卒業すると、同級生の半数は家を離れて働きに出ました。私は新制中学校まで進学させてもらいましたが、同時に父に替わって農作業を担うことになり、曾祖父と祖父から、農業技術を叩き込まれました。
 当時、代掻きは牛馬の役目でしたが、土の軟らかい半湿田は人力で田起しをしていました。三本鍬で田を起こし、大人のスピードに付いていけなければ農業をやる能力がないと叱咤されました。
 なにしろ曾祖父は明治5年生まれ。かなりのスパルタ教育でした。おかげで、蓑や米俵作りなど、”百姓”の技術をからだで覚えました。百の仕事をこなせなければ、一人前の”百姓”ではありません。
 「せがれを学校に出すと家が途絶える」と考えていた曾祖父や祖父の元で、私は当然のように中学を卒業後、農業に専念しました。同時に、戦後、村づくり運動の核となった青年団運動に参加しました。この青年団運動が、私にさまざまな人との出会いを与えてくれました。その後の人生は、青年団運動で学んだことを実践してきただけだと、今振り返ると思います。

 仲間と農の哲学学ぶ
 1950年(昭和25)、中学を卒業して就農し、青年団運動に参加した私は、まもなく岐阜県の篤農家で『開拓記』の著者・梅村登さんの門下生になりました。梅村さんは、赤貧生活から山を開墾した開拓農家で、その頃は全国を講演して歩いていました。私は何度か講演を聞き、どうしても師事したくなり、ご自宅に押しかけたのです。
 梅村家では、ご家族と寝食を共にしながら、日中は原野を開墾し、夜は子供たちと一緒に、部屋にたったひとつのランプの下に頭を寄せて勉強しました。「志したことは一生貫く」という開拓精神を、梅村さんから学んだと思います。
 その後、地元に帰り、53年、藪神村の青年団長になりました。食糧難と就職難の中、村には青年男女があふれるほどおり、青年団は団員300人の大集団でした。
 最初は、陸上競技大会や演芸大会など、親ぼくを深める活動が中心でしたが、世の中が安定を取り戻し始めると、村や農業の将来について議論しようという気運が高まりました。講師を呼んで話を聞く合宿研修「農業夏期大学」を開催したり、篤農家へ実習生を派遣するなど、青年団運動は、密度の濃いものに変わっていきました。
 とはいえ、当時は家長の許しがなければ、1円のお金も自由にできなかった時代です。家からこっそり米を持ち出し、他の食品やお酒に替えて、みんなで飲み食いしながら議論したのを懐かしく思い出します。
 この「夏期農業大学」が、私に大きな転機を運んできました。「理想農家の農業経営」などの著書がある篤農家で、兵庫農科大学講師でもあった近藤正さんを講師に招いたとき、「愛農会に入会しないか。絶対に後悔しないから」と勧められたのです。
 尊敬する近藤先生の勧めならと55年、三重県にある愛農会の根本道場での研修会に参加しました。創始者の小谷純一先生は、やせこけてガンジーを思わせる風ぼうで、神を愛し、土を愛することで農を興し、豊かな村づくりを目指そうという「三愛精神」と「愛農運動論」を熱く語っておられました。私はそこで、農に対する哲学のようなものを得たと思っています。同時に、同じ理念を共有する生涯の仲間たちも得ることになりました。

 1頭で米1表の高値
 1955年(昭和30)、22歳で愛農会に入会し、愛農運動を通じて学んだ最も大きなことは「農こそ人間生活の根底たること」という理念です。
 農業は労苦のわりに収入が少なく、金額だけを目的にすれば、これほどつまらない職業はないことになります。しかし、視点を変えれば、農業は、人間の命を支える生命産業です。
 農業経営の究極の目的は、金銭ではなく、楽しい豊かな農家生活を確立することにある。いのちを支える食を豊かにし、家族を幸せにする農家生活を営むことが、人間の豊かさ、村の豊かさにつながるという信念が、私のなかに育まれました。
 この頃には村でも、稲刈りを終えると冬は出稼ぎに出る兼業農家が増え始めました。東京オリンピックを控えた東京には、雇用があふれるほどあり、農家にとっても、出稼ぎが最も資本投下がかからない収入源でした。
 「むかし戦争、いま出稼ぎ」という言葉が生まれ、『村の女は眠れない』という草野比佐男さんの詩集が、後に大きな反響を呼んだ時代です。私は、出稼ぎをせずに家族とともに暮らせる農業を構築したいと思いました。そして、冬にも収入が得られ、ふん尿を土づくりに役立てられる畜産の導入に活路を求めたのです。
 最初は、耕耘機の登場で不要になった役牛の牛舎を活用して、酪農を始めました。青年団の中にも、酪農仲間が多く、夏期農業大学の合宿中、搾乳のために、早朝、自転車で自宅と合宿所を往復したのを思い出します。しかし、飼養頭数は3頭が限度でした。何しろ冬は積雪が3m近くになる豪雪地帯。搾った牛乳を背負ったりソリに積んで、毎朝、雪道を集乳所まで運搬するには、3頭が精一杯だったのです。
 酪農の規模拡大に限界を感じた私は60年、養豚に転向しようと決めました。豚を4頭導入し、なるべく資金をかけないように、牛舎の内部を仕切って豚舎替わりにしました。当時は、子豚1頭が米1表程度の金額だったと記憶しています。
 その頃に結婚した妻のマスは「酪農なら牛乳も飲めるし、搾乳が終わればコタツに入っていられると思っていたのに、嫁いだ途端、養豚に切り換えられてしまった」と、後に笑って文句をいっていましたが、こうして私の養豚人生は、27歳の時に始まったのです。
 
 規模拡大し出荷1000頭
 1960年(昭和35)、酪農から養豚に転向してすぐに、新たな課題にぶつかりました。種付けを考えると、やはり酪農と同じで規模拡大が難しいと気づいたのです。
 人工授精がまだ普及していなかった当時、種付けは、オスを持つ養豚家の家までメスを連れて行き、自然交配させてもらう方法が主流でした。これでは、せっかく運んでも発情期に合わず無駄足になったり、なによりも冬はソリに乗せて人力で母豚を運ばなければならないため、頭数が限られてしまいます。
 ロスを避け、規模拡大も可能にするためには、自分自身が人工授精師になり、自分の豚舎で種付けできる環境を作ればいいと思いました。さっそく新潟県に問い合わせましたが、県では、資格取得の講習会を開く予定は無いと言われました。あきらめきれず、農林省(当時)に問い合わせてみると、茨城県と鹿児島県で講習があるといいます。
 すぐに茨城県の種畜場の合宿講習に参加。資格を取得して翌61年、自宅を改装して人工授精所を開設、人工授精師として開業しました。
当時は村のほとんどの養豚家が1〜2頭の母豚だけを飼う小規模養豚だったため、種付けの需要は数多くありました。
 私は、人工授精師の仕事をしながら、飼育頭数を徐々に増やし、豚舎を増設していきました。こうして、顕微鏡からブルドーザーまで操る”百姓”の生活が始まりまったのです。
 2年後、農協から養豚の嘱託指導員になるよう要請を受けました。61年の農業基本法施行で畜産奨励の風が吹き、農協も、養鶏・酪農・養豚各部門に1人ずつ嘱託指導員を設置して支援に乗り出したのです。自分の経営と併行して、1ヶ月に10日ほど、技術指導に集落を回る日々がスタートしました。
 やがて、村でも規模拡大を目指す養豚農家が現われ、養豚団地の造成も始まりました。7年間、嘱託指導員を務めましたが、70年には、私自身の経営規模も母豚50頭、年間出荷頭数で1千頭の一貫経営を確立していました。
 とはいえ、当時はまだ、「自分の力でやれる程度まで増やそう」という漠然とした目標で、養豚を営んでいた気がします。
 経営という視点で養豚を本格的に始めたのは、72年、全国養豚経営者会議の設立にかかわってからのことです。

−続く


2008.12.26 Friday

奈川




熊。月の輪熊。
獲ったのは、野麦峠の長野県側、奈川という地域の山らしい。

今年の5月だったか6月だったか忘れたが、
このblogを始めてひとつだけ、今も意識している事がある。
始めたきっかけは、小豆島でひとり、
インターネットに掲載されている、文を読み続けていて、
『ひとの書いたものばかりを読んでいてもつまらない』と、ふと思った。
今でも意識している事は、10年後の自分に読ませること。

ところで、ひょんな事から、
自分に似た部分を、沢山持った人間に出会った。

彼がこの熊を猟銃で仕留めた。
私の長女と同じ、30歳の若き猟師だ。

2頭の熊を発見し、一発発射!
的中した手応えがあったらしい。
おそらく夢中で走っただろう。
次に展開したのは目前10mに立ち上がった、
つまり、戦闘体制に入った1頭の『月の輪熊』。

彼は最初の一撃が当たっていると思っていたので、
多少ゆとりがあったかも知れない。

第2弾発射!!
狙い通り散弾が心臓を通ったらしい。

しかし、解体してみると、弾は第2弾しか見つからない。
どうやら一撃目が当たった熊は、どこかに逃げていて、
当たっていない方の熊が立っていたらしい。
その話を聞いた時、「お前、死ぬぞ」と言った。



これ、ロースの部分。
熊の肉を食べたのは初めてだった。
味噌仕立ての鍋に。
先月の末、彼は、小豆島に熊の肉を土産にやって来た。
このblogの2号目、長崎の農家、末吉健君の大学の同級生。
『社長と話し方や内容が、そっくりの奴がいる』
『いつか、そいつと社長を会わせたい』と言っていた。
大学時代に家賃をシェアーして、同じ部屋に住んでいたらしい。
『解体している時に、腹の中に手を突っ込むと、生暖かい』
『この暖かさに命を感じる』
『この暖かさは、出来るだけ早くに体感した方が良いので、
お前の娘にも、手を入れさせたい』
『いや、それだけは勘弁してもらいたい』
こんな会話だと末吉君が教えてくれた。

一番似ているところは、
興奮すると我を忘れてしゃべる事かな。
話は飛び回るが、
付いて来れない話題はないし、
付いていけない話題もない。
話が飛び回るのは、
頭を使ってしゃべっていないからかな。
口が勝手にしゃべってる。

それで先週、私が彼を奈川に訪ねた。
松本空港まで迎えに来てくれるよう頼んで、



家に着いたら、この熊肉カレーで昼飯。

カレーを食べても、話は途切れず、
彼が5年前から相棒に子犬から育てた、vinny(ビニー)が、
『ええ加減に山に行こう』と吠え始め、猟に同行した。



顔は、猟犬とは思えない愛嬌があり、人懐っこい。
よく走る、林道で、車の前を走っていく。
と思ったら、気配を感じるのか、匂いが鼻先を通るのか、
ふと、立ち止まっては、林道から斜面を駆け上っていく。

一発発射!
私には分からなかったが、vinnyが山鳥を発見して、
その山鳥を狙って撃ったらしい。
『当たったと思ったけど‥』
斜面を下ったが、見つからなかった。
vinnyも吠えなく、戻って来たから見失ったのか。
山鳥はスープが鶏より美味いらしい。

その後も獲物らしきものは、彼もvinnyも得られず、
家に帰って、近くの温泉に行くことにした。
私の居る小豆島と同じ、ひとが少なくなった集落や、
別荘地や、彼、水田君という、が欲しいと思っている土地や、
その地域の様子を見たかったので案内してもらいながら、
彼の狩猟の師匠でもある爺さんが経営する『仙洛』に着いた。
湯量は少なかったが、いい泉質だった。
何より、茶請けに出してもらった、蕪の漬物が美味かった。

晩飯は、骨にくっ付いている肉を、そぎ落とした部分で、
アウトドア用の厚手の鉄フライパンに、玉葱を敷き詰め、
その上に、熊肉を並べてダルマストーブで蒸し焼く。
玉葱の酵素が肉を柔らかくする。
これは、フード生田さんも、豚肉でそのレシピを書いていた。
味付けは塩のみで、充分甘味を引き出していた。

結局、夜中の12時まで、しゃべり通しだった。

朝飯はみそ汁を用意してくれた。
彼は30歳の男にあるまじき料理をする。
前の晩に、人参を刻んでストーブで煮ていた。
出汁がえらい美味いので、聞いてみると、
前の晩から昆布を水に漬けていたそうな。
鰹の出しは『布巾でまで、よう濾さんけど、ざるで濾します』って。
私は、そんな面倒な事は、とてもじゃないけどできない。
せいぜい、箸でくるくる回して、付いてくる鰹だけを出す。
ゴボウも入っていた。アク抜きもしっかりしているらしい。

さて、朝飯を喰って、山に出かけた。



今年から、ワナも作って仕掛けてあった。
左の樹の、雪からの生え際に、銀色のワイヤーが、
樹の向こう側をくるっと回って手前にきている。
この2本の先にワナの本体がある。
足を踏み込むと、つま先が引っかかる仕組みになっている。
画像の左中央から樹の左脇を通って、右上に獣道が抜けている。

ワナ専門の猟師もいるが、
水田君は専門にするには、性格がアグレッシブ過ぎる。
犬を使って、猟銃を持って、獲物を追う方が向いてそう。
それでも、稼ぎにしようと思うと、ワナも仕掛けて当然だ。



これは、イノシシの足跡。




イノシシが鼻先で引っ掻き回しながら、
向こうの斜面のねぐらに帰る道だという。
下の画像は、私が獣道をじっと見て、撮影したり、
何処にワナを置いたら良いかを考えて、立ち止まったままだから、
気付かなかったが、猟銃を樹にもたれ掛けさせて、待ってくれてたようである。
でも、考えてもそう簡単には分らない。
結局、私の結論は『もっと数を多く仕掛ける』だった。
その話をすると『自分が見て回れる数は20』と言っていた。
ワナを作るコストがいくらか知らないけれど、
一箇所に3個位のワナを掛けて、ひとつの地域に、10箇所。
それを3地域程度掛ければ、90ワナになる。
要は確率の問題だから、多いほど確立は上がるのではないか。
仕掛けがうまくなれば、数を減らせばいいから。
こんな事を考えていた。

それにしても、山を上り下りするのは、久し振りで、
途中、何度も水田君に待ってもらいながら、歩いた。
3回ほど『もう此処で帰ってくるのを待っていようか』と思った。
雪の斜面を歩く靴が無かったので、
ソレルのカリブーってブーツを借りていた。
インナーが入っていて、ホカホカするほど温かいが、
私の足が、もう半分入るくらいブカブカだった。

帰り道、昨日温泉に浸かった『仙洛』に、蕎麦を食べに行った。



写真が下手で美味しそうに見えない。
と思う方は、下記の誰か分らないblogを見てください。
上手に撮影して、美味く説明されています。
http://blogs.yahoo.co.jp/dowluck32/36933120.html

水田君が小豆島に来てくれて、
一番印象に残っている言葉が、
『玉の備蓄さえあれば、生き残ってみせる』です。
私には、この言葉は重く、私も猟が出来るように、
猟銃所持許可を申請して、猟を教えて欲しくなった。
この歳になって、身体が3つも4つもほしい。



2008.12.25 Thursday

ベビーリーフ用畑ー石拾い編




昨日は、こうなったと説明した。



今日は、こうなった。
昨日の説明通り、石を拾った。
上の段も下の段も表土は、長年の落ち葉等で肥えているので、
上の段と下の段の境に積み上げておいた。
しかし、上の段にその土を戻す事は、大変困難であると諦めて、
全て下の段に満遍なく戻した。
その結果、下の段の方がよく肥えた土になっていると思う。
上の段に比べて石も少ない。



バケツを持って、ゆっくり走るトラクターの後を付いて行く。
出てきた石を拾っては一輪車に。
一輪車が一杯になれば、敷地の隅に捨てに行く。
この作業を辛抱強く4たび繰り返す。
深さも、そのたびに増していく。



最後にロータリーを高速にして、土を細かくしていくと、
このように足跡が正確に深く残るほど、軟らかい土になっていく。
これくらい細かな土の方が、ベビーリーフは育てやすい。

これで、本当にこの畑も第一段階を終えた。



この後は、先週から掃除を始めている、
家の裏の英さんのハウス畑と、
このハウス畑への道の掃除が完了すれば、
ハウスのパイプをばらして、移動して、組み立てる。
来週から、違う作業が始まる。

改めて、上下の畑部分を計測してみると、
6m幅が合計で50mになる。
丁度3畝分。
ここから、どれだけの販売できるベビーリーフが年間生産されて、
いくらの単価になり、その経費は幾らになるのか、
とらぬ狸の皮算用も始まる。



2008.12.20 Saturday

ベビーリーフ用の畑−土木工事完了編



12月20日


10月 3日

明日は冬至。
明晩は高槻にいる。念の為、今晩、星を見上げた。
オリオンの☆☆☆と、そこから少し離れた、その延長線上の僅か右下に、
ひと際光る星がひとつある。
これがどうやら、シリウスらしい。
一晩経てば、一直線上に並ぶのだろうか。
確かに、このライン上の水平線から、今朝の太陽は出た。
何故か、ワクワクする。

今年のお盆明けに星君が来て、勝さんと佳代子の4人で朝礼をした。
『年内にベビーリーフを出荷する』と私は目標を掲げたが、
‥此処まで打った時に、明日が冬至と思い出させてくれて、
いきなり話が飛んだ。
そうそう、12月中にベビーリーフを出荷するんだった。
少なくとも、11月中に栽培をスタートさせておく必要があった。
それは解かっていたが、‥‥。
まあ、いっか。

上の画像が今日の撮影。
下が、みかんの樹を切り始めた時の画像。
上の画像で、そのみかんの樹は燃えている。
これで、土木工事は完了である。
次の工程は、トラクターを速度も1、ロータリーも1で、
ゆっくりかけながら、浮いてくる石を拾っていく。
ある程度石を拾えたら、ロータリーを2して、少し深くする。
それでも、石が出てこなくなれば、3に上げ、
速度はアクセルを吹かせながら、調整して進む。
ここまですると、細かくていい土になる。
ここは、少し砂混じりの土で、
ベビーリーフの栽培には打って付けである。

まあ、ユンボに乗った事も無い人間が、ようやったかな。



2008.12.19 Friday

もう少しで冬至






『日が短くなったなあ』と思っていたら、もう冬至が来る。
のんびりしていたら、あっという間に地球は太陽を一周してしまう。
今年は冬至に晴れ続きであって欲しい。
何より、オリオンの☆☆☆と、シリウスって文字でしか知らない、
その星が、一直線に並び、その延長線上に陽が昇るらしい事を、
今年の春に知った。
これが、復活の3日という語源と読んだ。
この眼で見たいと思っている。
でも、曇りらしい。

上の画像は10月 9日am6:06
下の画像は12月15日am7:10
高槻の寝室から日の出を撮影した。
携帯電話のカメラだから、ええ加減なもんだが、
その位置が随分南に移動した。

小学生みたいで恐縮だが、
太陽と地球を、遠くに見る位置に立つと、
宇宙に右も左も無いのだろうが、
地球の地軸は右に傾いていると思う。
そうすると、冬至は太陽に対して、最も右に移動した事になって、
その前日が周回の奥で、その翌日が手前で、
同じ位置から、太陽が顔を出すという理屈になる。
夏至を含む前後1日ずつも、太陽の左側で、同じことが言えるのだろうが、
以降、日が短くなる日より、太陽が長く照ってくる冬至が、
『復活の日』に相応しいと言われれば、そうかもしれない。
イエスが生まれたクリスマスは、従って、太陽暦の12月24日なのかな。
ケーキ屋さんの稼ぎ時だ。

太陰暦では、1月26日が元旦で、当然新月である。

地球は回転しながら、太陽を周る為、毎日朝から夜の間に顔を出し、
朝顔は朝日を浴びて咲くから、太陽の影響を受けている事は自明だが、
月は、昼に顔を出したり、夜に顔を出したりするから、
その影響は見逃されがちになる。
海の傍にいると、海面の上下で、
如何に月の影響を受けているかは、本当に良く解かる。
多少能天気に言わせて貰えば、
昨今は、太陽暦の終焉なのかも知れない。
もし、本当に終焉なら、最後の足掻きが恐ろしい。

『陽極まれば陰に転じ、陰極ればに陽に転ず』と言い、
うちの軒下の干し柿は、まもなく陰に転じ甘味を増し始めてくる。




2008.12.16 Tuesday

夏至観音


 



小豆島の東南の端に『碁石山』って山がある。
私が農業をしている所は、この山の南側に佇む小泊湾岸。
造成している畑から見上げれば見える、
切り立った崖下の建物に行くつもりだったが、
そこは違うところだった。
実は、昨年の正月に此処に来て、
『いつかあそこまで山の中を歩いて登ってやろう』と思っている。

いきなり横道に逸れてしまったが、
私のお袋に『写経を納めてきて欲しい』と預っている。
私が『裏の山に観音さんがある』と言ったので、
息子を護ってもらおうとの親心ではないか。

雨の日に行こうと思っていて、ようやく走った。
着いてみて、いつも下から見上げてる所とは違うことが解かった。
下から見上げているところは『一心寺』という、
八十八ヶ所巡りの番外札所だった。
今回参ったところは標題の『夏至観音』という、一番札所で、
洞雲山という画像のような岩の窪みに本堂がある。
下から見上げている、その裏斜面って事になる。
生憎、本堂は暗過ぎて画像にならなかったが、
名前の由来である夏至観音とは、
複雑な岩の壁が、夏至の太陽光を浴びると、
隣の岩肌に、観音さんとして、その陰が登場するらしい。

季節が違うからか、参拝しているのは私たちだけで、
車で上がってくる道も、落ち葉がびっしり積もっていた。
帰りの下り道、画像上部中央の空白に、
内海湾が綺麗に見えたので、撮ってみた。
何処にでもある風景だが、
神、仏に触れた時は、また少し違って見える。



2008.12.14 Sunday

玉葱栽培−移植後20日




全ての苗が立ち上がってきた。
今年は丁度良い時に雨が降る。
玉葱は通常、畝を作る必要が無い作物らしい。
でも、この借りている畑は、もともと田んぼ。
少し雨が降ると、水捌けが極めて良くない。
トラクターの後ろに付けるアタッチメントで、
『平高畝形成機』で高さ30cmの畝を作った。
反当りの植え付け本数は少なくなるが、
通路には火曜に降った雨が、未だ水気がたっぷり。
こういう状態だと根は伸びないし、出来た玉葱も水っぽい。
今年は単価で勝負したい。



2008.12.13 Saturday

にんにくホワイト6片の栽培



にんにくの植え付け

寒さに震えた。
先週の土曜日12月6日、今年最大の寒波到来。
靴下を2枚履いて長靴。
コールテンのズボンの上に、2重になったジャージ。
腰に大判の貼るカイロ、前日から痛めていた左上半身にも小型カイロ。
頭には厚手の毛糸の帽子。
手は皮手袋。
これが、その日の出で立ち。

にんにくの栽培は、始めてである。
昨年試験栽培をした。
100粒撒いて、そのまま100粒発芽した。
しかし、収穫適期が分らず、半分以上を収穫できずに終わった。
もちろん全く農薬を使用していなかったので、
その事も一因だったかも知れない。

今作は100kgの種にんにくを仕入れて、90kgを使用している。
青森の『沢田ファーム』さんに指導をしてもらおうと、
植え付け時に問い合わせると、快く応えてくれた。
『先ず植え付け前に石灰を、1反当たり100kg〜150kg施肥‥』
『種子消毒をベンレートT水和剤の1000倍水溶液に一晩浸して、
翌日に乾燥させてから植え付けをする‥』
『青森とは気候が違うので、出来るだけ遅く植え付けて、
出来るだけ早くに収穫した方が良い‥』
『追肥は桜の花が咲く頃が最初の肥大期なので、
そのタイミングで効く様に、追肥をする‥』
以上を教えてくれた。

早速、種子消毒用の農薬と石灰を購入し、
石灰が土に馴染むまでの期間を設けて、植え付けを一週間遅らせた。

寒さに耐え、一刻も早く家に帰りたかった。
自分の意志に服従する事に誇りを保ちたい。
振り返れば、農業をしようとしているのは、
この一点に尽きるかもしれない。
この吉田清一郎という肉体は、
何処から来てるのか未だ分らない意識の実現の為に、働いている気がする。
この意識を健全に保つ事が、生きている証であり、意味。
『心に乗っかっている音』ってうまい事言うなあ。
意識こそが人との繋がりであり、後の繋がりは利害と妥協の産物。
円であれ、ドルであれ、ユーロであれ、元であれ、バーツであれ、ウォンであれ、
人との繋がりがお金に取って代わった時代が、
ひょっとすれば終わりを告げてくれるかもかも知れない。
その後にどんな圧政があろうとも、
先ず、この事が甦れば、圧政はいずれ転覆する可能性がある。



2008.12.06 Saturday

移植7日目




播種20日後の苗

今年は薄播きを心掛けた。
昨年は無農薬だったが、今年は節減対象外の農薬、
つまり、有機農産物で使用を認められている農薬を散布した。
この二つの対策を昨年に比べてしている。
昨年は深植えでの失敗もあったが、
病気になっていた苗も多かったから、
移植のストレスに耐えられなくて、後に消えていったと考えていた。


移植5〜7日目

現在のところは、昨年と雲泥の差。
移植後、水も一切やっていない。
昨年は通りかかる散歩の人が『何を植えてるの?玉葱?』と。
幾ら失敗覚悟の1年生でも、心に堪えた。
『いっそ、鋤き込んだろか』と何度か思った。
さすがに今年は聞く人もいない。
隣の家の御主人が『今年は、青々してるなあ』と笑ってた。
今年の6月収穫の時、トラックに2杯の玉葱を見て、
その奥さんが『よかったねぇ、どうなることかと思ったけど』と、
他にも何人か収穫前に『それなりに成って良かった』と喜んでくれた。
私も玉が太った事よりも、周りの人が喜んでくれている事に、
ホッとして、そちらの方が嬉しかった。

でも、今年も隣の畑、数一っつぁんの畑は、既に苗が立ち始めている。
比べては、『何でやろ』と思う。
星は、1年目だから昨年の私と同じように、自信を無くしてるだろう。
そのたびに、『去年に比べたら雲泥の差で、今年は期待できる』と、
励ましている。

心配は基肥を施用するのが遅れたから、
効いてくるのに今少し日が掛かると思われる。
だけど、今の内は玉と根さえ元気でいてくれれば、
1月2月の燐ペンが出来てくる時に、
肥料が効き、がっしりした玉葱に仕上がると思っている。



2008.12.04 Thursday

もちぶたの営業−松江編



スーパーふくしまさん ラパン母衣町店(ホームページより)

お客様とは有り難いものである。
昨年末、勝手なお願いをしに行った時、
『吉田さんの言う通りするよ』と福島社長に言ってもらった。
我々の商売は毎日々々、商品を絶え間なく買っていただく。
一時はよく松江に通ったが、ここ数年は行ったことが無かった。
すっかり無礼してしまっているのに、あっさり聞いていただけた。

そしてまた、私の都合で『もちぶた』を取り扱ってくださいと、
厚かましくもお願いに行っている。
今までは青果をお願いしていた。
その上に、今回から一転して豚肉の営業に出かけている。
確かに、この『豚肉』はいい商品である。
社長にも『これだけの豚肉を持ってくるとは思わなかった』と、
複雑な誉め言葉をいただいた。
既にラパンさんでは3種類の豚肉を扱っておられた。
そこに更に『もちぶた』である。
それでも、早速扱い開始してもらった。



大山

高槻から一番急ぎで行くには、伊丹−米子を飛行機で飛ぶ。
一度これで行こうと思ったが、伊丹で飛行機に乗り遅れ、
結局、車で走ったがスピード違反でパトカーに捕まった。
それでも、注意だけで許してもらった。
後にも先にも、スピード違反を見逃してくれたのはこの時だけであり、
そういう意味では、縁起のいいルートである。
名神ー中国−米子自動車道を乗り継いでいく。
後はJRで岡山に出て、伯備線に乗る。
私はこの伯備線が苦手で、帰りに大概乗り物酔いをしてしまう。

このルートの楽しみは、蒜山高原を過ぎれば、大山を見られる。
この山は四季を通じて美しい。
日本人に限らず、人が山を崇拝する習慣は、
『自分以上に素晴らしい存在がある事』を感じる由縁であり、
そしてその事を知り、崇められる事が、
もともとの人間が、素晴らしくも、また立派でもある証と思っている。
山の本で有名な新田次郎の息子、
数学者の藤原正彦が『国家の品格』の中で、
『美しい処に天才の出る確率が高い』という意味の事を書いていた。
そうなのかも知れない。



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